2008年11月10日月曜日

「な組」のひとたち

 東川という北海道の真ん中辺にある町で毎年写真の祭典があり、今年はその賞をいただくこととなり、7月の終わり、うだるような東京を抜け出しさわやかな北の町へと出向いた。前に何度かゲストとして呼ばれたこともあるので、だいたいの見当はついていたつもりだが、展示というのは初めてで、展示はいつだって具体的な作業を伴う。
 今回の受賞理由は、昨年末に出た写真集「half awake and half asleep in the water 」に対してだが、展示は今まで写真集になった3シリーズから構成することにしていた。とはいえ、3つのシリーズを一堂に会すなどというのはもちろん初めてのことである。今まで展示したものから構成するため、川崎市市民ミュージアムで1997年に展示した「NUE」のなかから50点ほどを出向いてセレクトし、2004年に横浜のBankARTで展示した「フニクリフニクラ」を引っ張りだし、h&hのシリーズはツァイトフォトサロンから送ってもらった。この時間と空間のバラバラな、同じ時期に見ることさえ初めてのものたちを展示した際、どう見えるかなど考えても今更仕方あるまい。NUEは展示したときと同じ3段がけで、フニクリは2段にして更に互い違いにしたらどうなるか見たかったし、h&hは一段でいちばん長い壁を中心に並べるつもりだった。
 私の場合、作品の形態がシリーズごとに違うので、それぞれ展示方法が異なる。例えばh&hの場合は高さに留意して均等に並べる。フニクリフニクラはアルミフレームを隙間なく十数列、2段に互い違いにずらしていく。いちばん厄介なNUEは、5ミリのボードに貼ってあり、イメージが裁ち落としなので90度、正面から虫ピンをさすわけにはいかない。斜めにさして壁と固定させなければならない。3列とか4列で、3段がけで均等になるように注意しながら、表面を傷めないように気を使いながら斜めに虫ピンを……。更に虫ピンの頭を最後にカットする。気の遠くなるような作業は、川崎のときはもちろん業者がやってくれた。
 今度は業者ではなく、若いスタッフがやってくれた。ボランティアだかフレンズだか呼び名は何かあるみたいだが、全国から希望者が来るのである(最近は大学の単位として認められるシステムになったおかげかどうか、希望者が多くて抽選らしい。とてもいいことである。学生時代は有限だし暇ではないのである。私ももっと早くにそのことに気がついていればよかった)。若い人たちを纏めるプロのスタッフが二人いてその指導のかいもあり、みんな日に日に頼もしくなってくる。受賞者4人が町へ入るのをずらしているので、毎日がピークでもある。私の場合、h&h組、フニクリ組、ぬえ6x6組、ぬえ35ミリ組と4つに分かれて作業をした。h&hは一段なのでごまかしがきかない。緊張感を強いられる。一枚一枚が大きく、水平を取るのが難しそうだ。フニクリはアルミフレームで軽いけれど隙間なく2段に釘を打たねばならない。ピンなら微調整がすぐ出来るけれど、釘だと引っこ抜いてやり直さないとならない場合が多い。トンカチは慣れないうちは扱いづらい。指を入れる隙間もないので、確実に決めていかなければならない。すこしでも曲がると浮いてきたり入らなかったりして、初めからやり直さないとならず、これもかなりしんどかったと思う。ぬえの大きい6x6は枚数は少ないものの、パーティションの壁から上にはみ出させないと展示しきれないことが判明、かなりの高さでの作業を強いられる。
 とはいえ枚数がいちばん多くてたいへんなのが35ミリのぬえだ。余白もなにもない数十点のボードを壁一面に均等に展示しなくてはならない。関西のYくんとKさん、東京のKくんの3人が、一枚手に取っては壁に当ててみて、水準器で水平をはかり、隣や上下との間隔をはかり、押さえ、斜めに虫ピンを入れ、左右打ったら離れて確認し、また打って、の繰り返しを延々とやっている。貧乏くじを引いたのか克己心が旺盛なのか、気の毒になってくる。修業ならば額装だとかのほうがもっと勉強になる。壁一面の展示は神経を使う割にはうまくなっていつも頼まれるようになっても嬉しくないような、そんな技術であるのではないか。でも、ごめんね、と言うわけにもいかないし。いつ、もうヤーメタ、と言われるかとハラハラしながら出来るだけ近づかないようにしていたら、彼らも粋な息抜きをしていた。
 あるとき、Kさんが近寄ってこう言った。「ならはしさん、カタカナの『ナ』は撮ったんですけど、平仮名だとテンがいるんです」「……?」「テンになってもらえませんか」「……???」
 写真を見てようやく分かった。人文字を作って撮影していたのだ。カタカナの「ナ」は2人でも可能なはずだが、重ならないよう横棒を2人で担当していた。平仮名の「な」は4人でも難しい。特に下のまるっこいところがなかなかうまくいかない。何度がやり直した末、添付した写真のように出来上がったのでした。右上のテン、やらせていただきました。多謝。

(C)Kazuo Yoshida

2008年10月25日土曜日

ニューヨークの宿

 今年は二回もニューヨークへ行くこととなった。まず5月、ICPのグループ展に参加するために。そして7月,個展のために。5月だというのに寒くて,そして7月は10分を超えて歩きたくないような暑さ。逃げ場はいっぱいあるし,写真撮影が目的ではないから構わないのだけれど。というか仕方ない。
 最初はタコマークの旅行会社でニューヨークのど真ん中のでっかいホテルを予約した。なかなか快適。私の部屋は上の方で眺めもいいし広い。バスタブもありシャンプーだのリンスだのもちゃんとあり、石けんは引き続き使いますと書いておかないと,毎日替えられてもったいない。木製の大きな作りの中にそれなりの大きさのテレビがあった。簞笥のような存在感だった。ドアの外側が膨らんでいる。二重扉のようになっている。とても不思議だったが、居合わせたN.Y.在住の人によると、クリーニングの受け渡し用の扉だという。内側からクリーニングに出す衣類をその扉の外側に吊るしておくと、向こうからそれを開けて、持って行くのだという。
 7月に行ったときは、エージェントの方が割とよく利用されているという下町に近いホテルにした。前の所でもよかったのだけど、たまたまいっぱいだったし、こちらも使い勝手の良さそうなホテルだったし、確かに町中で行き交う人の話し声なんかも聞こえて、リッチとは言えないながらもなかなか快適だった。シャンプー、リンスは当然のごとくなく、シャワーも固定式でえらく狭いので、体をいろんな角度にひねりながらでないとシャワーを使えない、のはたいそう不便ではあったが耐えられないほどではない。向かいに朝早くからやっている店があり、連日ここで朝食をとった。旅行中はいつも朝ご飯を何にしようかと頭を悩ますので、これはとても好都合だった。ガスパチョだとかキッシュだとかも試みた。毎朝ミルクコーヒーを頼んだ。この濃さが、飲み慣れている家の味に近く、通った遠因かもしれないと思う。
 この写真は7月の宿の泊まった部屋を外から見たもの。すぐの所に交差点があり、窓の前を大勢人が通る。ホテルの1階の部屋というのも珍しい。唐突に人の声や足音が聞こえるのは慣れるまで何となく不安ではあったが、仕舞には内側から外を覗くような気分で楽しくなった。

2008年6月9日月曜日

ジェットラグ

 長時間のフライトは2年前のメルボルン以来で、メルボルンはフライトは長いのに時差はわずかで,だからちゃんと寝ないといけなかったのだけど、そうやすやすと空の上でいつも通りに眠りに就くわけもなくかなりつらい時間を,付属のモニターにかかる向こう版ドッキリみたいな番組を見たりして過ごした記憶があり,今回のニューヨークもフライトは長くしかも時差も大有りなので、心して臨んだのだがやはりうまく就眠できず、これからの日程を考えるとますます眠りが遠のいて、ニューアークに降り立ったときは、頭の芯がぶわっと膨らんでいるような気さえした。
 午后4時台に着くからホテルにチェックインが5時半で,展示会場に6時には着くだろうと甘い予測をしていたらほんとうに甘かった。入国審査に長い列が出来、しかも一人一人が割と長めで、指紋を採ったりしている。何しに来たのか何処へ行くのか(ってニューヨークに来てるのに)聞かれるがもう少し答えやすい質問にしてくれたらいいのに。パスポートの前のページに韓国入国の印を見つけた審査官,何を考えたのかいきなり私に向かってアニョハセヨ〜とか言い出すし。ひとの反応を見ている,何のためだか。少し腹立たしい。いや、かなり。
 最終的にはいつだって成り行きなのだけれど、この遅れで(しかも夕方の道路はとても混んでいた)最初の予定に間に合わず、気を取り直して向かったところは閉まっていて、さらに朝までやっているはずのパーティも終了していてスカ続きの一日だった。そこでまた気を取り直して,美味しいディナーを本日の目標に切り替え、同行者の友人のひとのおすすめの美味しいレストランで食事,というのがその日唯一のイベントになったのだけど、あろうことかビールを半分くらい飲んだところでくらくら、足が地に着かない感じで情けなくも一日が終わってしまった。旅先ではそりゃいろいろ体調を崩すことだってあったが、初日につぶれるとさすがに不安である。
 その後はなんてことなく無事に過ぎたが、忙しすぎたせいもあり緊張の連続だったせいもあり、ニューヨーク滞在中いちばん飲んだ日でもワイン2杯というテイタラクであった。このまま飲めなくなっていくのかしらんと漠然とおおきな恐怖感に取り付かれもしたが、無理に飲んで体壊すよかいいかとも思わないでもない。

2008年5月28日水曜日

2008年5月11日日曜日

クストリッツァ

クストリッツァが初来日するということをある日飲んでいて聞いた。教えてくれたのはその日会ったばかりの若い姉妹で,ふたりして大ファンなのだという。それにもちょっと驚いたが,クストリッツァがバンドとして来日するというのにも驚いた。でも映画の中の音楽が蘇ってきて聴きたくなってチケットを買ってしまった。
クストリッツァの映画を見たのはそんなに前ではない。タイトルには覚えはあった。封切られているときに面白そうだと思った記憶もあったが、当時は映画を観るなどという余裕がなかった。自分のことに精一杯で,ふつう自分のことに本当に一生懸命ならばたまに映画だって観た方がいいのに、その時期は映画なんか観ている暇はないのだ,という感じで生きていたと思う。いま思うと観ておけばよかった、ということになるが過去は変えられない。だからよけいクストリッツァに開眼させてくれた時期のもろもろには感謝の念がつよい。
ずっと映画なんか観ている暇はないのだ、と生きてきたわけではなく、学生時代は,それもひとよりうんと長い学生時代にはかなりの本数を毎年観ていた。洋画邦画を問わず,オールナイト、自主上映、映画祭。渋谷、馬場、飯田橋、中野。三百人劇場、名画座、フィルムセンター。映画制作にも関わり,移動するローアングルとかでカメラを持ったままキャスター付きの台に乗せられて引っ張られたりした。と書くと今更だけどなんだかすごく学生らしいことをしていたような気になってくる。今と直接関わりはなくても、一見つながりがなさそうに見えても、血肉になってたりするのかもしれない。そういう部分は否定は出来ない。
来日にあわせて名画座で2本立ても企画されているようで、久々に学生街を歩き名画座で映画を観る、なんて一日を夢想している。

2008年5月2日金曜日

無題

2008年4月27日日曜日

コトトギス

ブログというわけじゃなしにしても、また何か文章を書くことを、このサイトの中で立ち上げてゆくことを再開しようと、サイトの管理者のTさんと話していたのだけれど、なかなか種子がみつからない。きっかけが掴めず、生来のサボリ癖だけはしっかりとキープしていた。
では今始めたからといって特筆すべききっかけがあったのかというとそうでもなく、あえて挙げるならば風呂に入って湯船に横たわりながらふと「コトトギス」という言葉が浮んだから。意味はない。
これを全体のタイトルにしよう。でもいきなりこんな言葉が「プロフィール」とか「インフォメーション」なんかに混じっていても、誰もクリックしてくれないだろうからサブタイトルくらいかな、などと湯船につかりながら想いを続ける。
ブログ,とかいうものに違和感を持ち続けていた。今も消えてはいない。けれどもネットの言葉のゆき先らしきものにも魅力を感じていた。結局いつになっても始まりは見つからないので見切り発車ということで。すぐ止めちゃうかもしれないし、あるいは新しく購った携帯についている520万画素のカメラが活躍することになるかもしれない(といってもまだ使い方がよく分からないのだけど)。それはちょっと楽しみでもある。まずはリハビリしつつそろりそろりと。